大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和54年(ワ)13031号 判決 1985年4月26日

原告 甲野花子

右訴訟代理人弁護士 渡辺良夫

同 鈴木利廣

同 弓仲忠昭

同 佐川京子

被告 江崎哲雄

右訴訟代理人弁護士 高田利広

同 小海正勝

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金五五〇〇万円及びこれに対する昭和五五年二月二日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨

第二当事者の主張

一  請求原因

1  (被告の地位)

被告は、東京都中央区日本橋三丁目二番一八号大朋ビル三階において、「江崎形成クリニック」の名称で診療所を開設して医療に従事する医師である。

2  (診療契約の締結)

原告は、昭和四九年九月二〇日、被告との間で、被告が原告の両乳房の下縁に横切開を加え、乳腺と大胸筋膜との間を剥離してポケットを作り、切開部から訴外高研株式会社が製造販売したバッグ化されたシリコン(以下「シリコンバッグ」という。)を挿入し、切開部を縫合する美容整形手術(以下「豊胸術」又は「乳房形成術」という。)をするとの診療契約を締結し、同日、被告は、原告に対し、右手術をした(以下「本件手術(一)」という。)。

3  (本件手術(一)後の経過)

(一) 昭和四九年一一月上旬ころ、原告は、自己の左乳房の本件手術(一)による縫合部が開いたことから、同年一一月一九日ころ、被告による右縫合部消毒及び縫合手術を受けた。

(二) 同年一二月下旬、原告は、再度自己の左乳房の前記縫合部が開いたことから、同年一二月二八日に被告により、左乳房に挿入したシリコンバッグの摘出手術を受け、昭和五〇年三月一三日、再度被告による左乳房の豊胸術(以下「本件手術(二)」という。)を受けた。

(三) 昭和五〇年四月下旬ころ、またも原告の左乳房の縫合部が開き本件手術(二)により挿入してあったシリコンバッグが破れてシリコンバッグ内のゲル状のシリコン(以下「シリコンゲル」という。)が流出したことから、原告は、同年四月三〇日及び同年六月五日の二回にわたり、被告による右シリコンバッグの摘出手術を受けたが、被告は、これを完全に摘出せず、一部を原告の左乳房内に遺留した。

4  (膠原病の発症)

原告は、昭和五二年一二月中旬ころ、膠原病に罹患し、昭和五三年四月ころ、東京大学医学部附属病院(以下「東大病院」という。)において、全身性強皮症(膠原病)との診断を受けた。

5  (被告の責任)

シリコン系の物質を人体内に挿入した場合、その副作用として膠原病のような全身性疾患が生じる可能性があることは、昭和四三年ころの形成外科学会において報告され、美容整形への利用を中止すべきであるとの警告が発せられていたところ、本件手術(一)がされた昭和四九年九月二〇日には、被告もシリコン系の物質がその副作用として膠原病を生じさせる可能性がありうることを知っていたのであるから、被告は、医師として、シリコンバッグを使用した豊胸術を施行しない又は少くとも本件手術(一)、(二)に際して原告にシリコン系の物質の副作用について十分説明する注意義務があるのにこれを怠り、原告に対し、副作用は全くないから安心して手術を受けるようにとの説明をして本件各手術を行い、その結果、原告の両乳房に挿入されたシリコンバッグ又はシリコンゲルの副作用によって、原告を膠原病に罹患させた。

6  (膠原病発症後の原告の症状)

原告には、前記4のとおり罹患した膠原病の症状として

(一) 昭和五二年一二月下旬、膝関節、指関節に痛みが生じ、発熱、下痢、尿閉、全身浮腫、歩行困難、全身の関節痛、倦怠感、食欲不振、吐気がはじまった。

(二) 昭和五三年はじめから同年三月ころにかけて、両膝に水がたまり、指はソーセージ型になって動かなくなり、顔面は硬化して口が開きにくくかつ表情が乏しくなり、疲労しやすく、三七度三分ないし六分の発熱、足首、膝、手首及び指の関節痛、腰痛、頭痛、倦怠感が続いた。また、原告は、寒いと手が紫色に変わって力が入らなくなり、午前中は足の底が痛んで歩けず、日本式便所を使用できなかった。その後これらの症状は、さらに悪化し、原告は、熱い茶を飲むことができなくなり、手首には針で刺されるような疼痛が生じ、首がひきつり、階段の昇降もできなくなり、昭和五三年五月には、呼吸困難に陥った。

(三) 昭和五四年末の本訴提起時においては、原告には、全身の皮膚の硬化、全身の関節痛、骨のまわりの疼痛、頭痛、両腕のつけ根の疼痛、倦怠感、脱力感、冷感、めまい、動悸、息切れ、いつ襲ってくるかわからない呼吸困難などの症状があった。

(四) その後も原告には、食事の際、箸を持つと腕と指の関節痛が、阻しゃくするとアゴの関節痛が生じ、朝目が覚めると両手及び両足のしびれ感、肩こり、頭痛が残り、全身が硬直した状態になった。歩行については、下肢の関節痛、筋肉痛、大腿部の引き裂かれるような疼痛、足の裏の疼痛があり、足が重く感じて、階段の昇降が困難で歩行が苦痛になり、便所は洋式以外使用することができず、正座もできず、長時間椅子に座ると膝より下がむくんで重く感じ、冷房をかけると皮膚の色が紫色になり、寒さによる関節痛が生じ、立つことも歩くこともできなかった。上肢についても、原告は、腕を動かすことが困難なので、衣服の脱着に長時間を要し、背部のファスナーをかけることも布団を上げることもできず、新聞を手にとって読むのさえ肩及び両腕が痛むような状態になった。また、買物に際し、財布から硬貨を取り出すことも困難であり、入浴については、ぬるま湯でなければ入れない上、湯桶を片手で持つことができなかった。洗濯、掃除については、手を水につけると、手が紫色又は白色化して、しびれを感じ、指が動かなくなり、物干しに洗濯物を干す際には、腕が重くなり抜けてしまうような感じを受ける状態であった。

(五) 以上の症状は、すべて膠原病に起因するものであるが、膠原病は、現代医学の下では、治療方法が確立されておらず、厚生省によって難病の指定を受けた疾病であり、完治することは極めて困難な状況にある。

7  (損害)

(一) 入通院による慰藉料及び諸損害

原告は、6の膠原病の症状のため、以下のように入通院をくりかえした。

(1) 昭和五三年一月九日から同年二月四日まで日本大学附属板橋病院(以下「日大板橋病院」という。)に通院。

(2) 同年二月五日から同月二三日まで医療法人行定病院に入院。

(3) 同年三月二三日、日大板橋病院に通院。

(4) 同年三月二七日、東大病院に通院。

(5) 同年四月一八日から同年五月一二日まで東大病院に入院。

(6) 同年五月一二日から同月一九日まで都立駒込病院に入院。

(7) 同年五月一九日から同年九月三〇日まで東大病院に入院。

(8) 同年一〇月一日以降昭和五九年まで東大病院に通院。

原告は、以上の長期にわたる入通院により多大な肉体的精神的苦痛を受けるとともに、一八五日間の入院期間中一日当たり金一〇〇〇円の雑費(合計金一八万五〇〇〇円)、初診日及び入院時一部負担金など治療費金七万〇七〇〇円並びに便所改造費を負担した。

以上の損害は、少くとも合計金三五〇万円を下らない。

(二) 休業損害

原告は、膠原病発症当時、オッペン化粧品株式会社に勤務しており、健康であれば昭和五三年一月一日から昭和五六年八月三一日までの間一か月当たり金二〇万円の収入を得ることができたところ、膠原病の発症により右期間の休業を余儀なくされ、合計金八八〇万円の休業損害を受けた。

(三) 後遺症による損害

原告は、昭和五六年九月ころから軽易な労務に服しはじめたが、前記6記載の症状がかなり残り、特に軽易な労務以外の労務に服することができない程度(自賠法施行令第二条後遺障害別等級表第七級四号を下回らない程度)の後遺症が固定した。

(1) 逸失利益

原告は、右後遺障害により、五六パーセントを下回らない労働能力を喪失したところ、右の後遺症が固定した昭和五六年九月一日当時三三歳であったから、六七歳まで三四年の就労可能年数があり、この間の逸失利益は、昭和五七年度賃金センサスによる産業計、企業規模計、短大卒女子労働者三三歳の平均賃金二八一万三四〇〇円を基礎に右労働能力喪失率を乗じ、ホフマン式計算により年五分の中間利息を控除して算出すると、金三〇八〇万円(一万円未満切捨て)となる。

(2) 慰藉料

右後遺症による原告の肉体的、精神的損害に対する慰藉料は、金七〇〇万円を下らない。

(四) 弁護士費用

原告は、本件訴訟の提起及び追行を原告訴訟代理人らに委任したが、弁護士費用は、金五〇〇万円とするのが相当である。

したがって、原告の全損害額は、金五五〇〇万円を下らない。

よって、原告は、被告に対し、診療契約の債務不履行又は不法行為に基づき金五五〇〇万円及びこれに対する弁済期又は不法行為の後である昭和五四年二月二日から支払ずみまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1及び2の各事実は認める。

2  同3(一)の事実は否認し、同3(二)の事実は認める。同3(三)の事実のうち、原告の左乳房内のシリコンバッグが破れてシリコンゲルが流出したこと及び被告が原告の左乳房内のシリコンバッグを完全に摘出せず、その一部を原告の左乳房内に遺留したことは否認し、その余は認める。

3  同4・5及び7の各事実は否認する。

4  同6の事実は知らない。

三  被告の主張

本件手術(一)、(二)で使用されたシリコンバッグ及びその内部のシリコンゲルは、いずれも純粋に精製されたジメチルポリシロキサンを主成分とする医療用シリコーン(以下これを「メディカルグレード」という。)であり、メディカルグレードの薄い袋の中にメディカルグレードのシリコンゲルを封入した構造になっている。メディカルグレードは、形成外科の分野のみならず、その他の治療分野においても、人工頭蓋、人工心臓弁、人工腱等の人工臓器としてぼう大な数が使用されており、これらの使用例から膠原病が発症したという報告は一度もされていないばかりか、メディカルグレードは、純度の高い人工組成物で、本件手術(一)、(二)の時点では人体に対する影響が最も少ない安全なものであると考えられていた。したがって、仮に本件で使用されたメディカルグレードの副作用として原告に膠原病が発症したものであったとしても、被告がそれを予見することは、本件手術(一)、(二)当時の一般的な医学水準においては不可能なことであり、被告が原告に対し、本件手術(一)、(二)に際して、シリコンバッグを使用したこと及び副作用についての説明を原告にしなかったことに過失はないというべきである。

四  被告の主張に対する原告の認否

すべて否認する。

第三証拠《省略》

理由

一  請求原因1及び2の各事実は、当事者間に争いがない。

二1  請求原因3(一)について判断するに

《証拠省略》によれば、原告の左乳房の本件手術(一)による縫合部分が約八ミリメートルほど開いたことから、被告は、昭和四九年一一月中旬ころに原告の右開皮部分の消毒をし、さらに、同年一二月二日に右開皮部分の縫合をしたことが認められる。これに対し、被告の診療所のカルテには、原告が昭和四九年一一月中旬ころ、被告方に通院した旨の記載がないが、被告本人尋問中の傷口の手当だけのような場合にはカルテに記載しないことが多いとの供述に照らすと、右カルテに原告の通院が記載されていないことにより右認定事実を覆すことはできない。

2  同3(二)の事実は、当事者間に争いがない。

3  同3(三)のうち、原告の左乳房内のシリコンバッグが破れてシリコンゲルが原告の体内に流出したこと及び被告がそのシリコンを完全に摘出せずその一部を原告の左乳房内に遺留したとの点を除く事実は当事者間に争いがないところ、《証拠省略》によれば、昭和五〇年四月三〇日の時点で、原告の左乳房内に挿入してあったシリコンバッグからシリコンゲルが流出していたことを認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。

三  《証拠省略》によれば、原告は、昭和五三年三月ころ、日大板橋病院において守田浩一医師から全身性強皮症の疑いがある旨を告げられたこと、同年四月二一日、東大病院において、中林康青医師から全身性強皮症と診断されたことを認めることができ、これに反する証拠はなく、以上の事実を総合すれば、原告は、遅くとも昭和五三年三月ころには全身性強皮症に罹患していたと推認することができる。

ところで、全身性強皮症と膠原病の関係について検討するに、《証拠省略》によれば、いわゆる膠原病とは、人体の結合組織特に膠原線維にフィブリノイド変性という所見のみられる全身性強皮症(全身性硬化症)、全身性エリテマトーデス、リウマチ熱、慢性関節リウマチ、皮膚筋炎、結節性動脈周囲炎の六つの疾患を呼ぶのに用いられたが、現在では全身の結合組織に炎症性変化がみられる症状、病態をとらえて広く膠原病と総称すること、その臨床症状は極めて複雑であり、全身にわたってあらわれ(皮膚の紅斑、丘疹、結節、発熱、食思不振、全身倦怠、レイノー現象、関節炎)、病因は不明とされていることが認められ、これに反する証拠はない。

四  請求原因5について判断するに、《証拠省略》によれば、被告は、本件手術(一)に際して、原告に対し、シリコンバッグを体内に挿入することの危険性はもとより、シリコン系物質によって生じる副作用を特に告知することなく、むしろシリコンバッグが安全なものであると告げていたことが認められ、これを覆すに足る証拠はない。

そこで、本件手術(一)、(二)において使用されたシリコンバッグ及びそこから流出したシリコンゲルのいずれかによって原告の全身性強皮症が発症したかどうかはさておき、本件手術(一)、(二)において被告がシリコンバッグを使用したこと又はシリコンバッグ又はシリコンゲルの成分による人体への副作用を原告に説明しなかったことにつき過失があったかどうかについて判断する。

1  (本件手術(一)、(二)で使用されたシリコンバッグ及びシリコンゲルの成分)

《証拠省略》を総合すると、被告は、本件手術(一)、(二)で使用したシリコンバッグを訴外高研株式会社から購入したこと、このシリコンバッグは、訴外高研株式会社が昭和四一年から製造し、純粋に精製されたジメチルポリシロキサンを成分としており、アメリカのダウ・コーニング株式会社で開発したメディカルグレードであること、シリコンゲルの成分もシリコンバッグと同じくメディカルグレードであること、ジメチルポリシロキサンとは、別紙記載の構造式が示すとおり、珪素原子と酸素原子が交互に結びついた(シロキサン結合)骨格をもち、個々の珪素原子に二個のメチル基がついている重合体であり、自然界には全く存在しない人工の有機化合物であること、ジメチルポリシロキサンは、「シリコーン」との名称がつけられ、自然界に存在する無機化合物である二酸化珪素の呼称であるシリカ又は珪素原子を意味するシリコンとは区別されることが認められ、以上に反する証拠はない。

2  (人体におけるアジュバント病)

《証拠省略》によれば、人体におけるアジュバント病に関する徳島大学名誉教授医師三好和雄(以下「三好教授」という。)の考えは以下のとおりであると認められ、これに反する証拠はない。

(一)  アジュバントとは、補助物という意味であり、免疫学において、生体に異種の蛋白質を注入すると、これが抗原となって生体内に抗体が産生され、抗原抗体反応が起こるが、ある物質を異種の蛋白質とともに生体内に注入することによって抗原に対する抗体の産生が増強される場合、産生を増強するという意味でその物質をアジュバントといい、抗体の産生が増強される作用をアジュバント作用という。ピアソンは、ラットに抗体を産生しその産生された抗体から発生するラットの生体に対する障害を研究すべく、異種の動物の筋肉を抗原としてラットに注入するに際しアジュバントも注入していたが、アジュバントのみをラットに注入した場合でも抗体が産生されて関節炎が発症したのを発見し、これをアジュバント関節炎と名づけた。

(二)  三好教授は、右のピアソンの実験につき、ラットにアジュバントを注入した場合、ラットの体内の自己蛋白質が変性して何らかの自己免疫反応を起こして自己抗体が産生され、アジュバント関節炎が発症したこと及び人間に生じる乳房形成術後の障害や珪肺病は、ラットのアジュバント関節炎と同一の原理によって発生すると考え、昭和三九年に、人間に生じるアジュバントによる自己免疫疾患の存在を提唱し、これをヒトアジュバント病と命名して発表した。

(三)  三好教授は、乳房形成術後に生じた全身性エリテマトーデスや全身性強皮症の症例を観察し、乳房形成術の際に用いられた異物がアジュバントとなって人体内の蛋白質を非自己の蛋白質に変化させ、これが抗原となって人体内に抗体が産生され、この抗原抗体反応の際に発生した免疫異常により全身性エリテマトーデス、全身性強皮症などの症状が発生すると考え、乳房形成術の際に用いられるシリコン系物質、パラフィン、ワセリン等がアジュバントとなりうるとした。また、乳房形成術後障害のほかに、シリカ(二酸化珪素)が肺に沈着し、生体内の自己蛋白質に何らかの抗原性を獲得させて抗原抗体反応が生じ、その免疫異常により珪肺病として全身性エリテマトーデスの症状を生じさせるとも考えた。そして、このように、全身性エリテマトーデスや全身性強皮症は、前記三認定のとおり、病態からは膠原病の一種であるが、発症機序からみると乳房形成術後障害及び珪肺病の場合は、いずれもヒトアジュバント病というべきであるとした。

以上の三好教授の考えを前提にすれば、本件において原告に発症した全身性強皮症もヒトアジュバント病であると解する余地もある。

3  (本件手術(一)、(二)以前のヒトアジュバント病の報告)

《証拠省略》によれば、以下の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。

(一)  三好教授は、昭和三九年一二月二六日付の「日本医事新報二一二二号」誌上で人体におけるアジュバント病の存在を提唱し、乳房形成術において、パラフィンを注入した後及びジメチルポリシロキサンを注入した後に人体に生じたアジュバント病の各症例(ジメチルポリシロキサンが注入されたのは昭和三八年七月であった。)及びその発症機序を報告し、昭和四二年の「第一七回日本医学会総会学術講演集」及び「昭和四二年度文部省科学研究費による研究報告集録」誌上で、人体アジュバント(adjuvant)病の研究結果を報告し、ジメチルポリシロキサンを使用した乳房形成術後の症例を二例掲載した(一例は、前記昭和三八年七月に乳房形成術を受けた症例であり、他の一例は、昭和三七年六月に乳房形成術を受けた症例であった。)。

(二)  三好教授をはじめとする徳島大学第一内科の医師らは、「日本血液学会雑誌昭和四五年第三三巻第六、七号」誌上で、人アジュバント病の発症に、シリコン、パラフィンが非特異的な刺激になっていることも否定できないと報告し、昭和四八年八月には、「臨床免疫第五巻第八号」誌上で、人のアジュバント病について詳細な報告をした。また、三好教授を主任とする徳島大学医学部第一内科の吉田和代医師は、昭和四八年度の「四国医誌二九巻四号」誌上で、ジメチルポリシロキサンを乳房形成術において使用した後の右(一)記載の二症例のほかに、昭和二九年から昭和四一年にかけて乳房形成術を受けた後の人アジュバント病の五症例を報告したが、同報告においては、単に乳房形成手術を受けたとの記載のみがあって、注入物質について記載がないものがあり、また、注入物質の記載があるものも単に異物注入又はシリコン注入と記載されているのみで、特に注入された物質がジメチルポリシロキサンであると特定したものではない。

(三)  昭和四四年一月の「形成外科」誌上で、日本医科大学の文入正敏医師がシリコーンのアジュバント作用を示唆したが、昭和四五年三月の「形成外科」誌上で、東京警察病院の大森清一医師及び平山峻医師が「異物注入(シリコン系材料)によってadjuvant's diseaseは起きるか否か」と題し、症例を通じて三好教授の考えを検討し、Silicone fluidを用いた症例を除く異物注入例では、注射局部と周囲組織との硬さの比較という点では失敗してしまったのに対し、Silicone fluidを少量ずつ注入した症例群では、ほぼ満足し得る結果を得たとしながらも、「異物注入によるアジュバント病の有無の問題及び生体内に注入された異物が生体の注入局部に停滞するかあるいは吸収され体外に排泄されるか否かの二点を解明しない限りは、異物注入法は臨床上安心して使用できる治療法とは考えられない。」と提言した。

(四)  日本医科大学の文入正敏医師らは、昭和四七年一月の「形成外科」誌上で、乳房形成術後に生じたヒトのアジュバント病と思われる症例の報告をしたが、その剖検によると、挿入してあった異物はワゼリンであった。他方、右文入正敏医師らは、昭和四八年一月の「形成外科」誌上で、昭和二五年に乳房形成術を行った際の注入物質の一部がシリコン系材料であった女性が後にヒト・アジュバント病と診断されたと報告した。

(五)  慶応義塾大学の杉本智透医師らは、昭和四九年一月の「形成外科」誌上において、異物注入による障害で来院した患者のうち、乳房内にシリコンを注入した三例につき注入されたシリコンによるadjuvant作用が考えられ、それが不良のシリコンによるものでなく、生体側の個体差により発生するものと考えたいと報告した。

(六)  順天堂大学の塩川優一医師らは、昭和四七年四月の「臨床免疫第四巻第四号」において、「乳房形成術後におこったいわゆるヒトadjuvant病と思われる症例」と題し、パラフィンと思われる物質の注入による豊乳術を受けた後のレイノー現象等の症状を呈した症例を報告し、これらは自己免疫疾患の様相を呈していると報告した。しかし、一方において、ヒトの形成手術時に注入される資材は、大きくはパラフィン系物質とシリコン系物質とに分けられ、低級パラフィンにAdjuvant活性作用があることは既に知られており、adjuvant病発生の症例もあるが、シリコン系物質に関しての同様な報告はあまり聞いていないとも述べている。

(七)  日本医科大学の木村栄一医師らは、昭和四七年度の「日本内科学会雑誌第六一巻」誌上で、「アジュバント病の一剖検例」と題して発表を行い、乳房内注入物質がadjuvantとして働いたと考えられる女性の剖検において、乳房内の物質がワセリンと認められると報告した。

(八)  昭和四二年六月二〇日付の「臨床アレルギー学」誌上で、ラットについてのアジュバント病の発症機序の研究報告が発表されているが、人の疾病との関連は明確でなく、乳房形成術後障害については何の報告もされなかった。

以上認定の事実のうち、(三)の報告における大森清一医師及び平山峻医師らの提言は、注射法について液状シリコンが人体内を迷入する可能性を懸念したものであって、本件のようなシリコンバッグを使用する乳房形成術(バッグ法)に対する批判とは言い難く、また、アジュバント病の有無の問題についても、症例上何も実証されていない段階でアジュバント病の存在を仮定して述べたものにすぎないものというべく、右(四)の報告において文入正敏医師は、シリコーンのアジュバント作用による全身的な変化の起こりうる可能性を示唆したほか、シリコン系物質が乳房形成術に使用された後にヒトアジュバント病の症状が発症した症例を報告しているものであって、そのシリコン系物質がジメチルポリシロキサンであるかどうか明らかでなく、(五)の報告における杉本医師らの報告は、注入されたシリコンによるアジュバント作用に関するもので、同報告において、見解として述べられているアジュバント作用は、シリコンによるものではなく、生体側の個体差により発症すると考えたいとの部分も右シリコンの注入を前提としているものというべく、本件のようなジメチルポリシロキサンを使用したバッグによる乳房形成術にまでは言及していないものといわざるを得ない。また、(六)の報告においては、シリコン系物質によるアジュバント作用について消極的な態度が示されており、(七)は、ワセリンが使用された場合の症例の報告である。(八)の報告は、いうまでもなくアジュバント病とヒトとの関連を明らかにしていない。そうしてみると、右認定の報告例のうち積極的にジメチルポリシロキサンによるヒトアジュバント病の発症を報告したのは、三好教授をはじめとする徳島大学の医師らのみであったといわなければならない。

このほか、《証拠省略》によれば、シリコーンその他の異物の注入又は挿入による症例が報告されているが、これらはいずれも本件手術(一)、(二)後に発表されたものであって、本件において被告の過失の有無の判断の根拠とすることはできない。また、《証拠省略》によれば、順天堂大学の熊谷安夫医師らは、ヒトアジュバント病患者一〇例の病型の分類をしたが、その症例の中に豊乳術においてジメチルポリシロキサンを注入したものを掲げていることが認められるが、その発表の年月日が明らかでなく、これもまた認定の根拠としえない。

4  (メディカルグレード)

(一)  そこで次に、前記3(一)、(二)で認定した三好教授らの報告についてみるに、同教授がジメチルポリシロキサンを使用した乳房形成術後のヒトアジュバント病として報告している二件の症例はいずれも昭和三七年から三八年にかけて乳房形成術が行われたという事実、吉田和代医師が報告した症例でいうシリコンがジメチルポリシロキサンであったとしても乳房形成術がされたのは昭和四一年であったとの事実及び前記1認定のメディカルグレードが日本で製作されるようになったのが昭和四一年以後であったとの事実を総合すると、右各症例において使用されたジメチルポリシロキサンがメディカルグレードであったとまで推認することはできない。

(二)  ところで、《証拠省略》によれば、ジメチルポリシロキサンには、メディカルグレードのみならずインダストリアルグレード(工業用シリコーン)もあり、メディカルグレードが開発される以前は、乳房形成術にインダストリアルグレードが使用されることが多かったこと、インダストリアルグレードは、純粋に製精されたジメチルポリシロキサンのみならず他の異物を含有していること、これに対し、メディカルグレードは、本件手術(一)、(二)当時にはアメリカ合衆国での実験例を通して、人体に対する影響が極めて少ないものであると一般的に報告されていたこと、本件手術(一)、(二)当時において、メディカルグレードは、外科の領域において広く身体内外の人工臓器(主なものは、人工心臓、人工食道、人工気管、人工胆管、人工尿道、義眼、義耳、義鼻など)として使用されるようになってきており、形成外科の領域において欠かすことのできないものと認識されるようになっていたことを認めることができ、これを覆すに足る証拠はない。

(三)  もっとも、前記1認定のとおり、メディカルグレードの成分であるジメチルポリシロキサンは、シリカと同じく珪素及び酸素を基調とする原子によって構成されていることに鑑みれば、シリカにはアジュバント作用があるとすれば、理論的にはシリカと同じくシリコン系物質であるジメチルポリシロキサンにもアジュバント作用があるとの可能性を一応考えることができる。しかし、前記1認定のとおり、シリカが自然界に存在する無機物であるのに対し、ジメチルポリシロキサンは人工の有機化合物である。したがって、以上のとおり、シリカにアジュバント作用があることを前提として純粋なジメチルポリシロキサンから成るメディカルグレードのシリコンプロテーゼにもアジュバント作用があるというためには、有機化合物が無機物に転化することについて合理的な説明が必要であるが、本件において三好教授らからは、この点について何の説明もされていない。

以上の1ないし4で認定した事実によれば、本件手術(一)、(二)の当時、シリカやジメチルポリシロキサンをはじめとするシリコン系物質によってヒトアジュバント病が発症するという三好教授の考えは、これに対して消極的な症例報告があったこと、ジメチルポリシロキサンを乳房形成術に使用した後にヒトアジュバント病が発生したという症例は同教授が報告した二例のみであったこと、シリカをアジュバントとする珪肺病の発症が確実なものと認識されていたとしても、シリカとジメチルポリシロキサンが異質なものであり、シリコン系物質といっても多種多様であることに鑑みると、当時の臨床医学上相当な検証がされていたとは直ちに認め難く、一般的医学水準に照らして確実な医学知識として定着するには至っていなかったと認めざるをえない。一般的に、医師がかかる医学知識に従って診療行為をしなかったからといって、これを直ちに当該医師の過失とみることはできないと解すべきである。

むろん、一般的医学水準の上で確実な医学知識として定着していなくとも、医学研究者による研究の成果として発表された知識は、その後に幾多の研究を経ることによって確実な医学知識となりうるものがあり、現代医学がこのような経験を積み重ねて今日まで進歩し続けてきていることに鑑みれば、患者の生命、身体の健康を守るため最善の診療行為を行うべき業務上の注意義務を負う医師としては、新たに発表された医学知識を完全に無視して診療行為の選択、実施をすべきでない場合もあると言うべきである。しかしながら、本件手術(一)、(二)当時において、三好教授は、メディカルグレードが使用されるようになる以前のインダストリアルグレードである可能性が高いジメチルポリシロキサンがアジュバントになったと思われる症例を報告していたのみであって、メディカルグレードに関して特に取り上げて論じておらず、しかも、その当時メディカルグレードは、人工臓器に数多く使用され、アメリカ合衆国での研究により人体に対する影響が極めて少ないものであるとの報告がされていたことに鑑みると、三好教授のヒトアジュバント病に関する症例報告を聞いた形成外科医師をして、直ちにメディカルグレードの安全性を疑わしめるような状況はなかったと認められる。そうだとすると、本件において、被告には、本件手術(一)、(二)をするに際して、メディカルグレードを使用することを差し控えるべき注意義務はなく、また、臨床医学上十分な検証を経ていないジメチルポリシロキサンによりヒトアジュバント病が発症する可能性があるというような知識を特に原告に告知する注意義務もなかったと解すべきである。

以上のとおりであるから、本件手術(一)、(二)において使用されたメディカルグレードがアジュバントとなって原告に全身性強皮症が発症したかどうかはさておき、本件手術(一)、(二)当時、被告には、原告に対しシリコンバッグを使用して豊胸術を施行したこと及びシリコンバッグを乳房内に挿入する危険性を告知しなかったことにつき何の過失もないと言うべきである。

五  (結論)

よって、その余の事実について判断するまでもなく、原告の請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 元木伸 裁判官土居葉子、同萩原秀紀は、転補につき署名押印することができない。裁判長裁判官 元木伸)

<以下省略>

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例